2012年5月1日火曜日

河川の中上流部の渓相についての考察  別冊 砂礫浜を考える(静岡の前浜の場合)その2


河川の中上流部の渓相についての考察  別冊 砂礫浜を考える(静岡の前浜の場合)その2

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河川の中上流部の渓相についての考察

別冊 砂礫浜を考える(静岡の前浜の場合)その2

2011年5月3日掲載
2011年5月23日一部訂正

     砂礫浜を考える(静岡の前浜の場合)その1、の続き

消波ブロックと離岸堤
 静岡の前浜に限らず各地の海岸では大量のテトラポットが投入されています。
これらは同じテトラポットであっても、その設置の仕方によって「消波ブロック」と「離岸堤」に区別されます。
 なお、テトラポットも正式には「テトラポッド」と呼ぶのだそうですが、そんな風にいう人に出合ったことはないので、ここでは「テトラポット」と呼ばせて頂きます。ついでに言うと釣り人の多くはそれを「テトラ」と呼んでいます。

 砂礫浜が浸食され始めると決まってテトラポットが投入されている事から、「消波ブロック」も「離岸堤」も砂礫浜を回復させるために設置されていると思われています。砂礫浜を回復させることをその設置理由として説明している場合もあります。

 でも、残念な事に、これは間違いです。「消波ブロック」も「離岸堤」も海岸の浸食を防いだり、その浸食を遅らせたりする機能はあります。 しかし、砂礫浜を回復させる機能は全く有りません。

 上記の理由で日本の各地に多くのテトラポットが設置されて来ましたが、それによって砂礫浜が回復した例がどこかにあるのでしょうか。全国の海岸を熟知している訳ではありませんが、どう考えてもそれは無いと思います。

消波ブロック
 海岸線に沿って波打ち際に設置されるのが「消波ブロック」です。
その設置の最初から波打ち際を全て埋め尽くすことは少ないようです。多くの場合で所々に元の自然海岸を残して設置されているようです。この僅かに残された自然海岸と「消波ブロック」の内側の陸地を見る事により、その場所の浸食具合が分かります。
 残された僅かな距離の自然海岸がどれほど陸地側にえぐられているのか、また「消波ブロック」の内側の砂礫浜がどの程度残されているのかを見れば、浸食の進み具合が判断出来ます。
 静岡の前浜のように大小様々な大きさの砂礫がある場合では、えぐられた場所や「消波ブロック」の内側に残された砂礫の大きさによっても、浸食の進み具合が判断出来ます。 砂や小さな石が多ければ浸食はそれほど進んでいません。大きな石ばかりになれば浸食は大変進んでいます。それがさらに進めば陸地は無くなります。

 「消波ブロック」には砂礫浜を回復させる機能はありませんから、「消波ブロック」が設置された渚の線よりも海側方向に砂礫浜が拡大する事は有りません。これは、残された自然海岸の部分でも、「消波ブロック」の海側でも同じです。

 「消波ブロック」はなぜ砂礫浜を回復させる機能がないのでしょうか。冒頭で説明した砂礫浜が出来る理由を思いだして頂きたいのです。波によって打ち寄せられた砂礫が陸地に乗り上げ、その内の一部が砂礫浜に取り残されて砂礫浜になるのです。
 「消波ブロック」は名前の通り波を打ち消しています。沖からやって来た波は、本来「消波ブロック」のある場所で崩れて陸地に押し寄せるはずでした。しかし、沖から波がやって来ても「消波ブロック」によってそれが妨げられます。

 波が小さな時は、沖からの波はその場所で移動をやめてしまいます。それだけではありません。「消波ブロック」に当たった波はその一部が沖側に戻って、沖からやって来る次の波の成長を妨げます。波が大きく成長することも、成長して崩れることもありません。 波は「消波ブロック」の前でただ上下に揺れるだけです。
 波が少し大きくなって「消波ブロック」と同じ位の高さになった時は、その場で波が崩れたとしても陸に前進する力は弱められてしまいます。

 「消波ブロック」より高い波が押し寄せてくれば、波は「消波ブロック」を乗り越えて進みます。「消波ブロック」を乗り越えた波が陸地にまで押し寄たとしても、その波は砂礫を伴っていません。 しかし、押し寄せた波は陸地の砂礫を引きもどして「消波ブロック」の隙間から海へと持ち去ります。
 「消波ブロック」の隙間から海へと戻って行く砂礫は、「消波ブロック」がない時と比べれば少ないと考えられます。でも、「消波ブロック」よりも陸地側に持ち込まれる砂礫はもっと少なくなっています。多分、ほとんど無いのではないかと思われます。

 砂礫は海水の底で移動しているのです。「消波ブロック」と同じ位の高さになった時でも、「消波ブロック」より高い波の時でも、砂礫の陸地側への移動は「消波ブロック」によって妨げられています。 逆に、「消波ブロック」の隙間を通って砂礫は海へと戻って行きます。

 「消波ブロック」は砂礫浜を回復させる機能は全くありませんが、陸地の浸食を弱めて砂礫浜の浸食を遅らせていることは確かです。これは、後から紹介するいくつかの写真からも見てとれると思います。 でも、「消波ブロック」は静岡の前浜では、ほかにも大きな問題を引き起こしています。

 「消波ブロック」があることによって、沖からやって来た波が岸近くで立ち上がることは少なくなっています。また、波が岸に向かって崩れる機会も少なくなっています。 沖からやって来た波の多くは「消波ブロック」の前で上下に揺れる波に変わってしまいます。
 ですから、波の裏側で砂礫を移動させる流れが発生することも少なくなっています。これは、砂礫浜の海底に砂礫が供給されなくなっていることです。砂礫が供給されなければ砂礫浜は小さくなっていきます。

 静岡の前浜では、「消波ブロック」を設置することによって、その場所の砂礫浜の減少を少しだけ遅らせる事が出来ました。しかし、その場所から三保方向への砂礫の移動を妨げているのです。 「消波ブロック」を設置すればするほど、それより北東方向にある砂礫浜が浸食されました。

離岸堤
 波打ち際よりも離れた沖に、海岸線に平行して設置されているのが「離岸堤」です。設置してある場所が「消波ブロック」より沖であることが違っているだけで他に違いはないようです。
 その役割や機能も「消波ブロック」とほとんど同じだと思います。ですから、「消波ブロック」と同じく海岸の浸食を遅らせることはあっても、砂礫浜を回復させることはありません。 また、「消波ブロック」と同じく、砂礫を移動させる流れが発生する機会を少なくしています。

 静岡の前浜では、当初「消波ブロック」として設置されたものが、浸食が進んで「離岸堤」になってしまった、と思われるものもあります。

 「離岸堤」の場合では海岸の浸食の程度によって、その周囲の砂礫の堆積具合に違いが生じるようです。
 「離岸堤」と「離岸堤」に挟まれた自然海岸部分の砂礫が「離岸堤」の内側で沖に向かってその面積を増やしていく例を見た事があります。これは、その海岸では砂礫の移動がまだ発生している事によるものと思います。 丁度、岩石海岸に挟まれて小さな砂礫浜があるようなものです。
 しかし、このような状態が続く事は少ないのです。やがて、それらの「離岸堤」の横にも新たな「離岸堤」が設置されて、砂礫の移動が少なくなりますから、伸長した砂礫は姿を消していきます。 砂礫の移動が無くなってしまった場所での「離岸堤」の様子は「消波ブロック」の場合と同じだと思います。

 「消波ブロック」も「離岸堤」も砂礫浜の面積を増やす機能はありません。
 静岡の前浜の場合、何処からどのような順番でテトラポットが設置されてきたのか知りません。 でも、もしかして、それらが砂礫浜の減少が確かであることが確認される前に行われたのだとしたら、砂礫浜の減少はそれらテトラポットの設置によって引き起こされたものだと言えます。
 言い換えると、砂礫浜の減少を予防する目的で「離岸堤」や「離岸堤」を健全な砂礫浜に設置したなら、それらは減少を予防するどころか、逆に砂礫浜を減少させることになるのです。

失われつつある静岡の前浜
 静岡の市街地の南端である海岸線では、安倍川の河口から三保半島の先端まで、北東方向に向かっておおよそ長さ12Kmの砂礫浜が続いています。
 この砂礫浜が消失しつつある理由を考える前に、その歴史と現状を考えてみたいと思います。
 それらを検討することにより、どのように失われたのか、なぜ失われ続けるのか、或いは復活の可能性についても考えることが出来るようになると思います。

静岡の砂礫浜の歴史
 静岡の前浜のように長く続く砂礫浜では、土砂を流出し続ける河川の存在によってその存在が維持されていることが多いと思います。
 静岡では、安倍川から土砂が流出し続け砂礫が移動し続けたことにより、前浜が長い間維持され、三保半島も維持されて来ました。でもこれは、それほど単純な歴史ではなかったと考えています。

 徳川時代以前の静岡の平野部では、安倍川の流れは幾筋にも分流して流れていました。徳川家康時代の工事により、安倍川は近くを流れる藁科川と合流して一つの流れとなったと言われています。 ですから、それ以前には現在のような姿の砂礫浜ではなかった可能性があります。
 安倍川やその分流によって出来た幾つかの砂礫浜が全く一つに繋がり、その砂礫の供給が現在の安倍川の流れによることになったのは、徳川家康の時代以後なのだと考えています。
 日本各地の平野部を流れる河川も、その多くが徳川時代頃より後に行われた河川工事により現在の流れになったものと考えられます。

 三保半島については、一般的には安倍川の砂礫がつくり上げた地形だと言われています。しかし、そうとばかりは言えないと思います。
 久能山付近の山々の南斜面の地形は海からの浸食によって造られたと考えられます。これは、地形に興味を持つ人なら誰でも容易に気が付くことではないでしょうか。「石垣イチゴ」で有名な場所の地形がそれです。

 三保半島のほとんどは、久能山や日本平などからなる有度山塊が浸食されて産出した砂礫と、現在の場所ではない古い時代の安倍川の砂礫を基に作り出されたと考えられます。
 その後有度山塊は、海水面低下或いは浸食により、後退して砂礫の供給が少なくなり、その後に、古い時代や現在の場所の安倍川から砂礫が供給され続けて三保半島が維持されたのではないかと考えられます。

静岡の砂礫浜の現状
 この写真は、2010年秋から2011年春にかけて私が写したものです。ネットで見る事が出来る地図と上空からの写真も一緒に参照して頂けると、より分かり易いと思います。
 写真をクリックすると大きな写真が表示されます。
安倍川河口
左: 安倍川左岸河口下流側        右: 安倍川左岸河口上流側
水量が普通の時(平水時)に左岸河口の風力発電機の下から写した写真です。
右側は河口上流側です。広い砂礫浜が広がっています。 左の写真と比べる時は対岸で煙を出している煙突を目印にして下さい。
左側は海との接続部分。 中央左側に微かに見える人影の付近が海への流れ出しです。 砂礫による長い砂州が海と河口を隔てています。

河口より大浜まで
左: 大浜プール前              右: 河口より東側から大浜方向を見る

右側は安倍川河口付近より東側から大浜方向を写しました。 消波ブロックの内側には砂礫浜が広く残っています。遠くに見える山は久能山、日本平などの有度山塊です。その左がご存じ富士山です。
左側は大浜プール前の広い砂礫浜。 渚まで約135mあります。

大浜から大谷まで
左: 大谷川放水路東側           右:下島付近

右側は下島付近です。 この付近から海岸線は大きく方向を変えています。
左側は大谷川放水路の東側です。 渚まで約67mあります。

大谷から久能まで
左: 久能山正面の浜より東を見る     右:久能山西側の浜より東を見る

右側。久能山西側の浜辺の様子。 この付近より東側の砂礫浜が最も失われています。 ここでは渚まで約52mあります。
左側。久能山正面の浜より東を見ました。消波ブロックの内側の砂礫浜はほとんど失われています。

折戸、羽衣ノ松、真崎付近まで
左:羽衣ノ松方向を見る           右:折戸付近より西を見る

右側。折戸付近より西を見た光景です。
左側。羽衣ノ松の西側消波ブロック付近より羽衣ノ松方向を写しました。 富士山は雲の中に隠れています。

左:渚より羽衣ノ松を見る          右:羽衣ノ松前より西を見る

右側。 羽衣ノ松前より西を写しました。上の左側の写真とは逆方向からの写真です。
左側。渚より見た羽衣ノ松です。 渚より松林まで約116mあります。

左:真崎の南で見た渚です         右: 羽衣ノ松前の砂礫浜で

右側。羽衣ノ松前の砂礫浜で。 砂礫浜にある大きな石。中央に見える水筒の長さと直径は20×7Cmです。
左側。真崎の南側付近の渚です。北より南を写しました。 正面に見えるのは伊豆半島です。小さなうねりと波ですが、海岸線に対しての角度が深い事が分かると思います。


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静岡の砂礫浜はどのように失われつつあるのか
 静岡の砂礫浜は失われつつあるのですが、消滅していく砂礫浜のあり様は決して一様ではありません
 静岡の前浜を4つに分けて考えてみます。

「下島」から「折戸」まで
 長い砂礫浜の中間部にあたり、この部分の浸食が最も進んでいます。砂礫浜の陸地側に国道150号のバイパスが建設されていたので、元々その幅が狭くなっていましたから、浸食によってたちまちテトラポットだらけの海岸になってしまいました。
 長い砂礫浜の中でこれらの地区の砂礫が最も早く失われていったと思います。「消波ブロック」だったものが「離岸堤」になってしまい、さらにそれが沈下して行くのでテトラポットを上乗せしている場所もあります。

「折戸」から「羽衣の松」付近まで
 三保半島の付け根にあたる折戸から、さらにその先、「羽衣の松」の前の海岸付近までの区域です。
 長い砂礫浜の最後に浸食が始まった地区だと思います。下島から折戸までの浸食が進んだ際にもこの地区はそれほど浸食が進まなかったのではないかと思います。と言うのは、下島から折戸までの間で浸食された砂礫が三保地区に運ばれていたはずです。 でも現在は浸食が急速に進んでいます。もはや砂礫の供給が全くなくなっているからです。

「羽衣の松」付近から北西方向の真崎まで
 羽衣の松の少し先から、海岸線はその方向を次第に変えて北西方向に向かいます。北西方向の終端は真崎と呼ばれ、折戸湾すなわち清水港の入口です。
 この、安倍川から続く前浜の終端でもある北西方向に続く海岸は、それ以西の静岡の前浜とは趣が異なります。安倍川から移動して来た砂礫はその方向を次第に変えて北西方向に移動して行くものと思われます。 この区域では沖からやって来る波の方向と陸地との角度が深くなっているので、波打ち際を行き来して移動する砂礫も多いのではないかと考えられます。

「安倍川河口」から「下島」まで
 河口から、市民におなじみの大浜プールの前を過ぎ、下島付近までの間です。最も注目すべき地区です。実は、河口付近から大浜までの砂礫浜はあまり浸食されていません。でも、大浜から北東に進むに従って浸食の進み具合は大きくなっています。
 安倍川の河口付近が海に向かって突出しているので、この区域の海岸線は下島以東よりも北側に傾いています。下島付近で海岸線は方向を変えて、より東方向へ向かいます。ですから、下島以南では波の方向と陸地との角度が深くなっていると思います。 「羽衣の松」から真崎までと同様に、ここでも波打ち際を行き来して移動する砂礫が多いことが考えられます。これにより、安倍川河口に近いほど浸食が少なくなっていると考えています。

静岡の前浜の現状
 「消波ブロック」と「離岸堤」には砂礫浜を回復する機能がなく、かえって砂礫浜を消失させる原因となっている事を理解すると、静岡の前浜もまた違った眺めになると思います。

 静岡の前浜の砂礫浜が浸食されているのは、安倍川河口から砂礫が供給されなくなった、或いは減少した為であると考えられますが、全ての地域で全く供給されなくなったのではないのです。
 大谷から安倍川の河口に近付くほど砂礫浜は多く残っています。これは、河口から大浜までの間では砂礫の供給が僅かに残っている証拠だと思います。それが大浜までの砂礫浜を維持していると考えられます。

 大浜から大谷までは砂礫の供給が残されているものの、その量が少ないために浸食が進んでいます。大谷からその先には砂礫の供給はほとんど無いのでしょう。  これらを考えれば、前浜に設置されたテトラポットの周囲の浸食状況の違いの理由がよく分かると思います。

 「消波ブロック」と「離岸堤」が砂礫浜の消失の片棒をかついでいる事は明らかになったと思います。でも、静岡の前浜の砂礫浜を消失させている根本の原因がそれらのテトラポットにあるのではない事も確かです。それは、安倍川の河口からの砂礫の供給量が減っているからです。
 では、なぜ砂礫の供給量が減ったのでしょうか。それについて考える前に、もう少し砂礫浜について考えて見ます。

折戸の砂礫浜
 「折戸」は三保半島の付け根にあたる地区です。
海岸の観察のために折戸の浜を訪れた際に、地元の婦人から興味深い話を伺いました。現在の折戸の浜は浸食が進みテトラポットが至る所に設置されて、残された浜はごくわずかです。 その浜は全くの砂礫浜で大小の砂利と砂によって成り立っています。
 ところが、60年程前には折戸の浜は全くの砂浜で砂利は無かったそうです。
三保では稲作が出来ないので、砂浜が大きく広がった海岸に塩田を作り、塩を製造して新潟に送ってお米を手に入れていたそうです。当時、折戸を始めとする三保の海岸は、本当の意味の砂浜が大きく広がっていたのです。
  これはどう言う事でしょう。

 この証言から幾つかの事が推測されます。
 第一に、波の裏に発生する流れの性質がより明らかになった。
 第二に、当時の前浜では砂礫が多く供給されて砂礫浜が拡大する状況が続いていたと考えられる。
 第三に、砂礫浜の減少がいつ頃から始まったのか、推測することが出来た。

第一、波の裏に発生する流れの性質
 先に波の裏側に生じる流れについて、川の流れのようだと説明しましたが、それがより明確になったと思います。
 河川の中流や上流など、砂礫の多い場所の水の流れは流芯と岸辺とでその強さが異なります。流芯ほど流れが早く、岸辺では遅いのです。上流から流れて来る砂礫も流芯で流されればより下流にまで流され、岸辺に取り残された砂礫は下流に下る機会が少なくなります。
 ですから、岸辺には大きめの砂礫が残される事が多くなり、小さな砂礫ほどより下流にまで流されます。大規模な増水があって河川敷一杯に流れが広がった時には、岸辺にあった大きな砂礫も一緒に下流に下ります。

 波の裏側に生じる流れでも同じ事が起きていると思います。流れの流芯から外れた大きな砂礫は海側か陸地側に取り残されて、そのうち海側に取り残された砂礫は海底に落ちて行く可能性が多くなってしまいます。 そして、より遠くにまで運ばれるのは流芯を移動する小さな砂礫である事が多くなります。
 つまり、供給源である安倍川を離れるほど、波の裏側に生じる流れが移動させるのは小さな砂利や砂であることが多くなると考えられます。ですから、60年以上前には安倍川から三保の浜に移動して来た砂礫はそのほとんどが「砂」であったのではないでしょうか。

 現在の三保半島では、砂ばかりではなく多くの小石や、とんでもなく大きな石までを見る事が出来ます。これらの石は、現在の場所にある安倍川の河口から運ばれて来たものではないのです。
 これらの石はより古い時代に運ばれてきたものだと考えられます。ですから、三保半島の基礎になっている部分は、古い時代に有度山塊から産出された砂礫や、現在よりも東側にあった時代の安倍川やその分流による砂礫によって形成されたと考えられます。
 現在三保半島で石や大きな石が見られるのは、古い時代に形成された半島の基礎になる部分にまで浸食が進んでいる証拠です。

 河川により海にまで運ばれれて来た砂礫が、長い距離を移動していくと、篩(フルイ)にかけられたように砂だけになってしまう現象は、静岡の前浜に限ったことではないようです。
 ネットで知ったのですが、小田原の国府津の海岸でも同じ事が見られるようです。

 大井川による砂礫浜の東端と考えられる焼津の海岸でも同じことがあります。
現在でこそ焼津の海岸は、静岡の前浜と同じようにテトラポットの多い海岸になっていますが、昔は違っていました。私の父は、先の戦争が終わって復員して来てしばらくは焼津の和田浜海岸で塩田の作業に携わっていたそうです。
 焼津の海岸にも砂浜が広がっていたのです。

 焼津や静岡の人にはよく知られたことですが、明治時代の小説家「小泉八雲」(ラフカディオ・ハーン)は夏になると焼津に滞在して焼津の前の浜で泳ぐのを楽しみにしていたそうです。
 私がその話を知ったころ、焼津の海岸は堤防や岸壁に区切られた深い海岸と、早い流れと荒い波の砂礫浜しかありませんでした。「小泉八雲」は余程水泳が得意だったのだと思ったものです。
 しかし、砂礫浜の出来方を考えると、当時は水泳に適した海岸があったのだと思います。「小泉八雲」が泳いだと思われる付近は現在では焼津新港になっています。それより大井川に近い海岸でも、現在では全くの砂浜はどこにもありません。

 私が幼い少年の時代、いつ頃の事だったか定かではありませんが、現在の焼津新港の西端にあたる付近に小さな「乙女が丘海水浴場」がありました。私も何回か行った記憶があります。古い時代の最後の名残だったのかもしれません。 私が少年になった頃には無くなっていました。
 これらの例に限らず、砂礫で形成された浜辺が途中から、ほとんど砂ばかりの砂浜に変わっていく場所は日本中に多くあったと考えられます。

第二、60年ほど前の前浜では砂礫が多く供給されていて砂礫浜が拡大する状況が続いていた。
 海岸の砂礫は、その大きさによって水の流れや波から受ける影響が異なります。砂や小さな砂利など小さな砂礫ほど、水の流れや波によって移動し易いのです。
 三保半島一帯が砂浜であったことは、前述のように安倍川の河口から砂が移動してきていたからですが、それだけではありません。砂礫が小さくなれば、波によって浜から持ち出される量も増えます。安倍川の河口から移動、供給されていた砂の量がとても多かったから砂浜が維持されたのです。
 海岸に砂が多くなればその前の海底の地形も変わります。岸から沖に向かう傾斜も緩やかになり、波の強さやその形も変わります。移動して来る砂の量はよほど多かったと思われます。そして大量の砂が供給されていた期間も長かったと考えられます。 それは徳川時代から続いていたのではないでしょうか。

 ですから、安倍川の河口から三保海岸に至るまでの砂礫の移動量はとても多かったはずです。つまり、静岡の前浜一帯には大量の砂礫の移動があり、それによって砂礫浜はその面積を拡大する状況が続いていたと考えられます。

第三、砂礫浜の減少がいつ頃から始まったのか、推測する手がかりを得ることが出来ました。
 折戸から始まる三保半島の海岸にテトラポットが投入されたのは、比較的最近のことではないでしょうか。大谷から折戸までの区間に比べて砂礫浜の奥行きが深かった為に、テトラポットの設置が遅くなったと思われます。しかし、砂浜の浸食はそのずっと以前より始まっていたと考えられます。
 砂は小石や石よりも水の流れや波によって移動し易いのです。ですから、砂浜の砂が減少をし始めた頃には既に砂浜の浸食は始まっていたのに違いありません。 三保半島では海岸浸食されながらも、大谷から折戸までの砂礫も移動して来ていました。 砂浜の浸食は目立たないまま長く続いていたと考えられます。

安倍川の河口からの砂礫の供給量が減った
 安倍川の河口から前浜への砂礫の供給量が減ったのは何故でしょう。安倍川の河口では、昔も今も大量の砂礫が海に流れ込んでいるはずです。でも、砂礫の供給量が減ったことが、静岡の前浜にあった砂礫浜を消失させている原因なのです。

 「海岸に突堤が出来たから砂浜が無くなった」「川にダムが出来たから砂浜が無くなった」と一般的に言われて来ました。これらは全く正しい考えだと思います。
 「突堤」に関する発言は砂礫の移動の問題について、「ダム」に関する発言は砂礫の供給元の問題について言及しています。しかし、残念なことに、これらは素人の発言であるとして専門家はほとんど無視して来ました。

 ところで、これらの正しい考え方も静岡の前浜の場合では全く適用出来ません。安倍川から三保に至る静岡の前浜には突堤は一つもありません。
 安倍川にもその支流にも、多くの砂防堰堤はありますが、水や土砂を全く堰きとめる所謂「ダム」は一つもありません。にも関わらず、前浜への砂礫の供給量は減っているのです。一般的に考えられている原因が一つも無いのに、砂礫の供給量は減っているのです。これは、なぜでしょう。
 上記の原因以外の原因があるのに違いないのです。

 河川事務所や国土交通省では、この問題をどのように考えているのだろうか。
 また、ネットで調べてみました。 こんなページを見つけました。
国土交通省関東地方整備局 鹿島港湾・空港整備事務所
「増える砂浜・減る砂浜」
です。

 ここでは、砂浜が減っている原因の一つとしてとして、「水深が急に深くなっている海岸では沖に運ばれた砂が岸にかえってこない。(例:富山湾・駿河湾)」としています。
 これは、正しい判断だと思います。
 この文章では、河川の河口と言う文言はありませんが「〜沖に運ばれた砂が〜」としていますので、河川の河口をも含む海岸全体についての記述だと考えて良いと思います。
 つまり、静岡の前浜では沖に運ばれた砂礫が岸に帰ってこないのです。

 国土交通省関東地方整備局 鹿島港湾・空港整備事務所がどのような仕事をしている役所であるのか知りません。また、この問題が国土交通省の内部でどのように考えられているかも知りません。しかし、国土交通省の中にもそのように考える人がいることを知ることが出来ました。

 なお、このHPでは「増える砂浜」の例としていくつかの図式を掲載しています。それについて一言。
 先ず、これらは概略図ですから、それぞれの構造物の縮尺とその間隔が誇張して表現されています。その事を理解して眺めればなるほどと思わせる図であると言えるでしょう。
 しかし、これらは安倍川のような「反射型」の砂礫浜では適用できません。また、適用できる砂礫浜の場合でも、それを「増える砂浜」と言うのは言い過ぎです。これらは、砂礫浜の減少が一時的に遅らされている例に過ぎません。

治水の方法が間違えている
 安倍川の河口から前浜への砂礫の供給量が減ったのは、河口から海に流れ込む砂礫が沖に運ばれる事が多く、岸近くを砂礫浜へと移動する砂礫の量が少なくなったからです。 つまり、砂礫は沖に運ばれたまま帰って来ないのです。
 なぜ安倍川の河口の砂礫は沖に運ばれたまま帰って来ないのでしょうか。少なくとも、50〜60年以前にはそのようなことはなかったと思います。安倍川の砂礫は 移動して砂礫浜に供給され続けていたはずです。そして、砂礫浜は砂礫浜のままずっと存在し続けていたのです。


生物IIは、それぞれの生物群系は、どのくらいのスペースを取りません

 安倍川の河口の砂礫が沖に運ばれたまま帰って来なくなったのは、安倍川の水の流れ方が昔とは違っているからです。安倍川の水の流れ方が違って来たのは、治水の方法が間違えているからです。
 より正確に言うと、現在行われている河川の上流中流の治水方法が間違えているから、河川の水の流れ方が変わってしまいました。 河川の水の流れ方が変わったので、安倍川でもその河口の砂礫は沖に流れて行くばかりで、砂礫浜には砂礫が供給されなくなりました。ですから、砂礫浜が消滅しつつあるのです。
 念のため付け加えると、安倍川に地理的意味での下流はありますが、地形的意味での下流はありません。普通の河川では中流域にあたる区域がそのまま駿河湾に接続しています。

 現在行われている河川の上流や中流での治水方法は、上流や中流に急激な増水と急激な減水がもたらします。その結果、中流や下流の治水がより困難になっています。これは、私がこのHPで記述している一連の文章において度々指摘していることです。
 そして、急激な増水と急激な減水を引き起こす現在の治水方法は間違えている、と私は考えています。

 上流や中流での急激な増水は、支流が集まる中流や下流にも急激な増水をもたらします。流れる水は短期間に集中してより多く流れるようになりました。
 小さな規模の増水は急激な増水によって規模が大きくなりました。大きな増水は急激な増水により、さらに大規模な増水に変わりました。
 それぞれの増水時に、河川の水は急激に増加して、急激に減少していきます。そして、増水の期間は短くなりました。
 河川の水量が平水時であっても水量の減少は急激となる傾向にありますから、渇水期にはその水量がより少なくなります。安倍川では渇水期の冬に水が流れない場所が頻繁に出現するようになりました。各地の河川でも同じような傾向が見られるのではないかと思います。

 降雨量が多い時でもその量が少ない時でも、河川に流れる水の量の変化の仕方が、昔とは大きく変ってしまいました。 現在のような治水方法が行われる前には、増水の仕方も、その減水の仕方も、はるかに穏やかでゆっくりとしていたはずです。 もちろん、増水から減水に至るまでの期間も現在より長い時間がかかっていました。

 治水方法が間違えているから、河川では急激な増水、急激な減水が引き起こされるようになりました。その結果、安倍川の河口から砂礫浜への砂礫の供給量が減ってしまったのです。
 それは、現在の治水方法が行われるようになった50〜60年前から徐々に始まり、年月の経過とと共にその傾向はより強くなって来たのです。

河川から流れ込む砂礫と砂礫浜に供給される砂礫
 河川から海に砂礫が流れ込んでも、それがそのまま砂礫浜に供給されるのではありません。それらの砂礫は、一旦河口の岸辺近くの海底に堆積してから、その後に移動して砂礫浜に供給されます。
 安倍川の河口に上流から砂礫が流れてくる機会と、それらの砂礫を砂礫浜に供給する機会は、それぞれ別個の事情によって生じています。

 河川によって下流に運ばれる土砂の量は、そのときの水量に比例していると考えられます。水量が増えれば、流下する土砂の量も増えます。急激な増水があれば土砂の流下量も急激に増えます。 水量が急激に減れば流下する土砂の量も急激に減少します。しかし、海岸線で行われている砂礫浜への砂礫の供給はその変化に合わせることができません。

 雨が降って水量が増えれば河口に供給される砂礫の量は増えます。でも、砂礫の量が増えたからと言って、帯状の波が引き起こされて、移動させる砂礫の量を増やすわけではありません。砂礫浜に移動出来ない砂礫は駿河湾の底に流れ込んで行くばかりです。

 雨が降るのは気圧の低い時が多いようです。ですからその様な時には、丁度良い波が発生している事も多いのに違いありません。しかし、常に同じ時に起きている訳ではありません。

河川から流れ込む砂礫
 雨による増水で水量が増えた時、その水量が急激に増えてその後に急激に減少していく場合では、河口の岸辺近くの海底に堆積する砂礫の量は、その水量の割に、それほど多くはならないと考えられます。
 急激に増水すれば、勢い良く流れる水と共に、砂礫の多くが岸辺から離れた沖合にまで流されて行くのに違いありません。また、急激に減水すれば、流れて来る砂礫の量も急速に減少します。

 一方、雨によって河口に流れて来る水の総量が同じだとしても、その流れが穏やかに増加して穏やかに減少すれば、河口の岸辺近くに堆積する砂礫の量は増えると考えられます。
 水流が緩やかになれば砂礫が沖合にまで運ばれる事が少なく、砂礫は河口の岸辺近くの海底に多く堆積すると思います。また、穏やかに減水をしていくのならば、急激な減水の時に比べて多くの砂礫が岸辺近くの海底に堆積するのに違いありません。
 さらに、水量の穏やかな増加と穏やかな減少の場合では、その増水から減水に至る期間がより長くなります。これは、河口の岸辺近くの海底に砂礫を堆積させる期間を長くする事です。

河口の海底から砂礫浜に供給される砂礫
 水量の急激な増加と急激な減少は、河口の岸辺近くの海底の砂礫が砂礫浜に移動をしていく時にも、それを妨げると思います。

 安倍川の河口を観察した時のことを記述しました。その時、安倍川は増水して大量の水と共に大量の砂礫を駿河湾に運んでいたはずです。
 でも、波が発生していたのは岸から遠く離れた沖での事でした。 その波は沖で発生して直ぐに崩れる波でしたから、岸辺近くにまで届くことはありませんでした。 また、波の立つ沖合から岸辺近くにつながるような波もありませんでした。ですから、砂礫を沖から岸辺に戻す働きも岸辺には届いていなかったのです。
 同じ時に、岸辺でも帯状の波が発生していましたが、それは河口からの直接の水流とは離れた場所でした。 ですからこの時、上流から流れて来た砂礫のほとんどは駿河湾の底に落ち込んで行き、砂礫浜に供給される砂礫はごく僅かな量だったと思います。

 逆に、小規模な増水の機会には砂礫浜への砂礫の供給量が増えるのではないかと思います。
 小さな増水の場合には、水の流れに対抗して発生する波もずっと岸近くで発生するのです。ですから、一旦沖に出た砂礫も容易に岸辺近くまで引き戻されると思います。
 さらに、そこに帯状の波が発生すれば、河口から離れた浜辺へと多くの砂礫を移動させる事でしょう。 ですから、小規模な増水の場合には海に流れ込んだ砂礫のうちの多くが砂礫浜に供給される可能性があります。
 もちろん、小規模な増水の期間が長くなるほど砂礫浜に供給される砂礫の量は増えることでしょう。

 安倍川の河口では、小規模な増水の機会が減って、規模の大きな増水の機会が増えているのです。しかも、それぞれの増水の場合にその水量の増加が急激なものであり、同時に、水量の減少も急激なものとなっています。
  河口の岸辺近くの海底に堆積する砂礫の量が減った事は間違いありません。さらに、河口の岸辺近くの海底から砂礫浜へ移動していく砂礫の量も減って来たのに違いありません。
 砂礫浜に供給される砂礫の量は、このようにして減って来ているのだと思います。

 静岡の前浜の砂礫浜が減少しつつあり、消滅しつつある最大の原因は、現在の間違えた治水方法にあります。

「砂礫が消滅したり減少している海岸の多くでは〜」
 先に国土交通省関東地方整備局 鹿島港湾・空港整備事務所のHPの文章について、それは正しい判断だと説明しました。
 でも、まったく正しい判断だとは言えません。残念ながら勘違いしているところがあります。「水深が急に深くなっている海岸では〜」とありますが、この部分が違っています。この部分は「砂礫が消滅したり減少している海岸の多くでは〜」としなければなりません。
 ですから全体では「砂礫が消滅したり減少している海岸の多くでは沖に運ばれた砂が岸にかえってこない。」となります。 そして、それは富山湾や駿河湾の例に限らないのです。
 富山湾・駿河湾では水深が急に深くなっているので、砂礫浜の消滅、減少の原因を把握しやすかったのだと思います。

   再び、「砂浜海岸の生態と保全」(独立行政法人水産大学校 生物生産学科 沿岸生態系保全研究室 教授 須田有輔)

 「中間型砂浜」や「逸散型砂浜」では「反射型砂浜」と比べてその海底の傾斜は、ずっとなだらかになっています。これは、その砂礫の大きさによってその傾斜が異なってくるからです。
 同様のことは河川の上流や中流でも見ることが出来ます。自然状態の河川の横断面はU字型をしていますが、石や岩が大きな上流部ではU字型は深く、石が小さな中流部ではU字型は浅くなっています。 砂礫の大きさが小さいほど、堆積した砂礫が作る傾斜は穏やかなものとなります。

 「逸散型砂浜」や「中間型砂浜」で見られる砂礫は「反射型砂浜」に比べて小さな砂礫ですから、水や海水によって移動し易いのです。ですから、これらの砂礫浜では岸から離れた沖にまで砂礫が広がっています。
 同じことが、河川から海に流れ込む場合においても言えます。
これらの小さな砂礫は大きな砂礫の場合に比べて、普段から河口から離れた沖にまで運ばれているのです。大規模な増水の場合ではさらに遠くまで砂礫が運ばれているのに違いありません。
 ですから、安倍川の河口で発生している現象は、これらの海岸でも同じように発生していると考えられます。

 河川から海に流れ込む水量の急激な増加と急激な減少は、富山湾や駿河湾に流れ込む河川だけの現象ではありません。それは日本全国の河川で生じている現象です。また、全国各地でその傾向は年々強くなっています。
 砂礫浜の減少や消滅も全国各地で発生しています。これも、近年になればなるほどその場所が増え、その程度もひどくなる一方です。
 砂礫が消滅したり減少している日本中の海岸において、その原因のほとんどは河川の上流中流の治水の失敗によるものと考えていいと思います。

 治水方法が間違えていなければ、全国の砂礫浜が失われることは無かったのです。治水方法が間違えていなければ、膨大な量のテトラポットを海岸に投入する必要も無かったのです。

誤った治水方法
 現在行われている治水方法の間違いについて簡単に説明します。詳しくは本編をご参照下さい。
 現在、上流部、中流部で実施されている治水方法は、砂防堰堤、コンクリート護岸、大きな石や岩の持ち出し、コンクリート堤防、堤防内コンクリート護岸、そして大きな治水ダム、多目的ダムなどです。
 全く残念なことに、これらのほとんどが急激な増水と急激な減水を引き起こす原因となっています。

砂防堰堤
 砂防堰堤はその上流の土砂の流下を押し留めていると、多くの人が思っているようですが、それは全くの思い違いです。多くの砂防堰堤では大きな石や岩を堰止めていますが、同時に、多くの小さな石や砂を下流に流下させています。 それらの砂防堰堤が急激な増水と急激な減水を引き起こしています。

 砂防堰堤の全てが急激な増水と急激な減水を引き起こしているのではありません。その上流の河川敷を小さな土砂によって埋めてしまった砂防堰堤が、問題を引き起こしています。
 堰堤が出来る前には大きな石や岩があることによって、水も土砂もその流下が全体として穏やかなものとなっていました。 でも、大きな石や岩が小さな土砂の下に埋まってしまうと、大きな石や岩があることで水の流れを緩めたり、土砂の流下を一時的に堰き止めたりする機能を失ってしまいます。水も土砂も急激に下流に流れるようになります。
 これらの砂防堰堤の下流でも、大きな石や岩が流れて来なくなったために、上流と同じ現象が発生します。

 全ての砂防堰堤がそうなのではありませんが、多くの砂防堰堤がこれらの問題を引き起こしています。ですから、土砂の流下を堰き止めていると思われている砂防堰堤の中には、それが建設される前より多くの土砂を流下させているものもあります。

コンクリート護岸
 コンクリート護岸は、増水の時に岸辺近くの大きな石や岩を下流に流し去ります。幾度か大きな増水があった後では、コンクリート護岸の岸辺は砂や砂利など小さな土砂ばかりになってしまいます。 岸辺にあった大きな石や岩が無くなることで、やはり砂防堰堤の場合と同じように、水も土砂も急激に下流に流れるようになります。 

大きな石や岩の持ち出し
 砂防堰堤の場合やコンクリート護岸の場合で述べましたように、大きな石や岩を失うことは重大な問題を引き起こします。

 大きな石や岩がある事によって河川はその傾斜を保っています。大きな石や岩がその上流の土砂の流下を堰き止めているのです。上流ほど石や岩が大きくて多いのです。ですから、上流ほど流れの傾斜が強い状態が維持されています。
 これらが無くなれば河川の傾斜は維持出来なくなります。河川はその浸食を強め、より多くの土砂を下流に流失させます。水も土砂も急激に下流に流れるようになります。
 大きな石や岩は容易に移動しません。摩耗して小さくなる事も容易ではありません。それらは何百年、何千年にも亘る自然の営みが生み出した貴重な財産です。自然が与えてくれた土砂の堰き止め装置です。 しかし、現在用いられている重機類を使えば、それらも比較的容易に河川の外に持ち出せます。

 大きな石や岩の持ち出しがどのような目的で行われているのか分かりませんが、その行為について、私は大きな疑念を抱いています。
 上流や中流で何らかの河川工事が行われると、その後では付近にあったはずの石や岩が無くなります。そんな光景を幾つかの河川で何度も見ています。それらの石や岩の持ち出しは、その時に行われた工事に付帯する工事なのでしょうか。
 また、渓流のすぐ脇に大きな石や岩が積まれている事もよく見ます。時を経てそこを訪れるとそれらの石や岩は無くなっています。これはどのような工事なのでしょうか。


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 安倍川の場合にはその疑念はさらに強いものとなっています。
 先の別冊「安倍川大河内堰堤と白濁化現象について」を記述するため「静岡河川事務所」のHPを丁寧に閲覧しました。その際、安倍川の現状や問題点について多くの資料が掲載されているのを知りましたが、その中には大きな石や岩の持ち出しについての掲載は全くありませんでした。 その他の資料については、驚くほど詳細な研究まで掲載されています。
 特に不思議なのは、かって行われていた砂利採取事業について詳細に記述した箇所があるのにも関わらず、もっと大きな影響を与えている大きな石や岩の持ち出しについて全く触れられていないことです。これは全くもって不可解です。
 どうやら、「静岡河川事務所」はそのような資料を持ち合わせていないようなのです。もちろん、これは推測でしかないのですが。

 およそ400年前に安倍川の上流で「大谷崩れ」と呼ばれる大規模な土砂崩壊が発生しました。しかしその後に長い年月を経ましたから、崩壊による小さな砂や石はその多くが流下して行きました。
 ですから、安倍川には極めて大量の大きな石や岩が残されていたはずです。
 時折見かける古い安倍川の写真でも、大きな石や岩が多くあったのを知る事が出来ます。ところが、現在では大きな石や岩の量は極めて少ないのです。

 安倍川の場合、この地方の他の河川と比べても、増水の後の濁りの取れ方が大変遅いのです。「安倍川大河内堰堤と白濁化現象について」でも記述しましたが、安倍川が荒れている原因の一つに大きな石や岩が少ない事が挙げられます。
 安倍川の本流において大きな石や岩が甚だしく少ない事は、釣り人ならすぐに気が付く事です。安倍川の本流では淵がとても少ないのです。増水の際に魚がとどまることのできる場所がほとんど無いのです。 川の規模や、水量や、流れの傾斜を考えると異様だと言えます。
 大きな石や岩が少ないのは、「大谷崩れ」に影響されている安倍川の本流だけではありません。その他の支流やその上流でも、私が釣りを始めた頃に比べて、大きな石や岩の量はとても少なくなっています。

 その景観が美しいと言われる渓流が各地にありますが、それらの多くは大きい石や岩が大量にある事によって成り立っています。
 400年前に「大谷崩れ」があり、その後の長い年月に小さな土砂が流下して行ったことで、安倍川には大きな石や岩が大量に残り、どこよりも美しい渓流になっていた可能性があったのです。
 しかし、大きな石や岩を大量に持ち出した事により、安倍川はどこにも無いようなひどく荒れた河川になってしまいました。

 大きな石や岩の持ち出しは、もちろん自然現象ではありません。それらの工事には人手も機械も車両も必要です。当然、費用が発生しています。「静岡河川事務所」が発注した工事であるなら、当然それらの費用も含まれているはずです。
 「静岡河川事務所」が自ら発注した工事について、その資料を持ち合わせていないことなどあり得ないのです。しかも、それらの大きな石や岩は市場に出れば決して安くない価格で取引されます。
 ですから、大きな石や岩の持ち出しについての資料がないとすれば、それは極めて不自然な事と言えます。大きな石や岩の持ち出しに関して何らかの不正が行われている可能性を考えざるを得ません。
 もしも、大きな石や岩の持ち出しが「河川事務所」の関わった不正だとしたらそれは唯の犯罪では無く、とんでもなく重大な犯罪なのだと思います。治水を行うための役所が、治水を悪化させるために犯罪を犯している事になるのです。

コンクリート堤防
 河川の中流部では上流にある支流の水が集まって流れます。降る雨の量が大量だった場合にはさらに多くの水が中流に集まり、河川敷一杯に広がって流れます。 上流からの土砂も河川敷一杯に広がります。
 ですから、大規模な増水の後では河川敷一杯に広がった土砂が残り、河川の横断面は凹字型になっています

 中流域に堆積したそれらの土砂は、増水の後に続く減水や小規模や中規模の増水によって少しづつ下流に流されて行きます。そうして、河川の横断面は少しづつU字型に変わって行きます。
 小規模や中規模の増水が時々ある事で、U字型の流れは次第に深くなり、土砂の流下量を増やします。また、それは流れの位置を時々変えて蛇行しますから、河川敷一杯に広がった土砂も少しづつ流下していきます。
 これが河川の中流部における水と土砂の流れ方です。もちろん、大規模な増水の機会は小規模や中規模な増水の機会よりもずっと少ないのですから、これで全く問題ありません。

 ところが、砂防堰堤やコンクリート護岸が上流や支流の各所に作られた現在では、急激な増水が中流部にももたらされます。
 ですから、少しの雨量でも大量の水と土砂が中流部に流れ込みます。河川敷一杯に広がって水が流れる機会は増えるばかりです。
 また、それらの増水はその後に急激な水量の減少を伴っています。小規模や中規模の増水の機会も減っています。河川敷に広がった土砂を下流に流す機会は減少するばかりです。

 こうして、中流部の土砂の堆積量は増える一方です。大規模な増水の機会が増え、土砂の堆積量が増えれば、洪水の可能性も増えるばかりです。多くの河川で中流域の堤防のかさ上げをする必要が生じています。
 もちろん、中流域で急激な増水の機会が増えれば、その影響は下流域にも及びます。下流域でも堤防もかさ上げをする必要が生じています。

 コンクリート堤防の場合でも、その周囲の大きな石や岩を下流に流し去ります。ここでの大きな石や岩は上流のそれよりも小さなものですが、それらが無くなれば水や土砂の流下に影響を与えるのは同じです。
 横断面が凹字型になる機会が増え、U字型の横断面になるのは困難になります。つまり、堤防の内部に土砂が堆積し易くなるのです。

堤防内コンクリート護岸
 土砂の大きさが小さくてその堆積量が少ない下流部では、堤防内にコンクリート護岸を設置することは治水方法として効果があると考えられます。水流はより早く流れ、堆積する土砂も流れと共に急速に流れ去ります。 下流部の治水方法として必ずしも間違えているとは思えません。

 しかし、土砂の大きさが大きくてその堆積量も多くそれに対する水量が少ない中流部では、堤防内にコンクリート護岸を設置する方法は決して良い方法ではありません。
 堤防内コンクリート護岸は、その下流部での急激な増水と急激な減水の現象をより強くします。それだけではありません。堤防内コンクリート護岸のある箇所の流水は急激に流れ去りますが、その上流にも下流にも、土砂の堆積量を増やします。
 先に述べた自然による水と土砂の流下の実現を困難にします。これに対応するためには、その上流とその下流の堤防をかさ上げするしかないのです。

治水ダム、多目的ダム
 「川にダムが出来たから砂浜が無くなった」と一般的に言われている事を記述しましたが、これについてもう少し詳細に考えてみます。

 「治水ダム、多目的ダム」は河川の上流に建設されて、その多くが上流からの土砂の流下をほとんど止めてしまう構造をもっています。ですから、ダムの下流では土砂の流下がほとんどなくなってしまいます。
 でも、そうかと言って河口にもたらされる砂礫の量が無くなったり、大幅に減ってしまう訳ではありません。

 ダムが建設されるのは全ての支流ではありません。ダムが建設されない支流も多くある事でしょう。ですから、土砂の流下量が減ったとしても大幅に減ってしまうことは無いでしょう。
 さらに、「治水ダム、多目的ダム」の多くは上流にあります。上流から下流に至るまでには大量の土砂がその河川敷に堆積しています。それらの堆積土砂は流れる水と共に少しづつ流下して行きます。 また、それらの土砂は上流にある程大きいのです。ですから、決して一気に流下して行く訳ではありません。少しづつ摩耗して、少しづつ小さくなって流下して行くのです。それらの土砂が流下するには長い年月が必要なのです。
 したがって、上流部に「治水ダム、多目的ダム」が出来たからといって、河口に流れてくる土砂の量が短い期間の間で急激に減ることは考えにくいのです。

 しかし「治水ダム、多目的ダム」は砂礫浜にやはり大きな影響を与えています。それは「治水ダム、多目的ダム」の運用方法が間違えているからです。

 「治水ダム、多目的ダム」が出来る前、自然の河川では大規模な増水があって、それが洪水を引き起こしたりしました。「治水ダム、多目的ダム」が出来てから、その下流には大規模な増水が無くなり、洪水が起こる事もなくなりました。
 でも、洪水が起こるほどの大規模な増水は無くなりましたが、増水が無くなった訳ではありません。その、洪水にはならない規模の増水が問題を引き起こしています。

 「治水ダム、多目的ダム」以前の増水は、まさしく自然のままに引き起こされていました。
 急激な増水があったとしても、それは限られた地域のものである事が多かったのではないでしょうか。大きな河川の場合では、それらの急激な増水も、下流に下ればそのほかの支流の流れによって平準化される事が多かったと思います。
 大規模な増水があった時でも、それが平水から急激に大規模な増水に至ることはなかったはずです。長雨が続いた後に再び大雨が降った時など、ある程度水量が増えた後に大規模な増水に発展したりしたと思います。
 ですから、急激に大規模な増水になる機会は限られたものだったと思われます。

 しかし「治水ダム、多目的ダム」以後では、その状況が異なります。
 ダムの放水によって増水の仕方が決定されているのです。 ほとんどのダムの場合で考えられていることは、より多く発電するために或いはより多く灌漑するために、より多くの水を貯水することであり、ダムに危険の迫らない程度に放水することです。
 ですから放水は急激に始まりその水量を急激に増加させます。場合によっては、全くの渇水状態からそのまま最大放水量にまで至ることもあるでしょう。「治水ダム、多目的ダム」以前にはあり得なかった増水です。

 増水の後の減水過程でも同じことです。
 「治水ダム、多目的ダム」以前の増水では減水して平水に至るまでには長い時間が必要でした。大規模な増水でしたら、平水になるまでひと月以上の日数が掛る事も珍しくなかったはずです。 もちろんこれは河川の規模によって決まる事ですから、小規模な河川ではもっと早かったかもしれませんし、大きな河川ではもっと長い期間が必要だったと思います。
 しかし「治水ダム、多目的ダム」以後では、減水過程も急速に終わってしまいます。なぜなら、ダムの安全が確保されれば、放水する必要はもうないのです。いつまでも放水していれば貴重な水資源が失われるばかりです。

 上流の「治水ダム、多目的ダム」の放水による急激な増水と急激な減水は下流や河口にも及んでいます。
 ですから「治水ダム、多目的ダム」の急激な増水と急激な減水が「砂礫浜」への砂礫の供給を困難にしていると言えます。
 「治水ダム、多目的ダム」によって土砂の流下が止められている事の影響がないとは言い切れませんが、「砂礫浜」への砂礫の供給の減少の最大の理由は「治水ダム、多目的ダム」による急激な増水と急激な減水だと考えられます。

治水ダム、多目的ダムの上流部への影響
 「治水ダム、多目的ダム」の急激な増水と急激な減水は「治水ダム、多目的ダム」より下流の上流域の治水をも困難にしています。急激な増水と急激な減水が中流域での治水を困難にしていることは記述しました。同じ事が「治水ダム、多目的ダム」の影響を受けた上流域でも発生しています。

 増水による大量の土砂の流下が河川の横断面を凹字型にして、それに続く減水過程や小規模や中規模の増水がそれらの土砂を少しづつ流下させて行く仕組みは上流域でも同じです。
 大規模な増水や土砂崩れによって淵や深みが土砂に埋まった場合でも、その後に長い時間を掛けてそれらの土砂は下流に下って行きます。これは、渓流の釣り人なら誰でも知っていることです。
 「治水ダム、多目的ダム」の放水による急激な増水と急激な減水は、上流でのこの仕組みを破壊しています。

 急激な増水は、上流の石や岩を不必要に移動させます。急激な減水は移動した石や岩をそのまま取り残します。
 この繰り返しによって「治水ダム、多目的ダム」の下流では渓流が荒れて、大量の土砂が下流に流れていきます。これは、凹字型の横断面がU字型に変化する事が困難になっている事と同じです。
 急激な増水と急激な減水を和らげる働きを持っていたはずの上流部でも、その中流部でも、「治水ダム、多目的ダム」の誤った運用により急激な増水と急激な減水は止む事がありません。

 「治水ダム、多目的ダム」が非常に大きな規模の増水を防いで、下流を洪水から守っていることは確かだと思います。しかし、間違ったその運用方法によってそれより下流の河川を荒れさせています。
 身近な所に「治水ダム、多目的ダム」のある河川が無いので確かではないのですが、上流に「治水ダム、多目的ダム」がある河川ほど中流や下流の堤防のかさ上げが必要になっているかもしれません。

洪水と、より大きな堤防
 近年、河川の中流域で発生している洪水の様子が昔とは違ってきていると思います。もちろん私は専門家ではありませんし、得る事が出来る情報も新聞やネットなど限られた媒体によるものに過ぎません。それでもその事を考えざるを得ない状況にあります。
 幾つかの洪水では、水が急激に増えて急激に減少したとの住民の話がありました。幾つかの増水では、かって無かった程の水量であったとの話もありました。
 これらに対して治水を担当する役所では、過去に経験のない降水量があった、などと説明をする事が多いようです。でも、これは間違いだと思います。降水量に関しては、観測網が整備されてより詳細な情報を得ることが出来るようになった事が示されているに過ぎないと思います。
 それらの洪水はいずれも、上流での急激な増水によってもたらされたものなのです。流れる水量が同じであったとしても、それが急激に増えて急激に減少するならば、その水位は高くなります。 それが徐々に増えて徐々に減少していくならばその水位はそれほど高くはならないでしょう。これは誰にでも容易に分かることです。
 それらの洪水は、上流で推し進められている誤った治水工事によって生じたものなのです。担当する役所はこれを強弁して降水量のせいにしています。


 さらに最近、担当する役所では、河川の中流や下流により大きな堤防を建設する必要性を説いているようです。
 上流や中流で急激な増水の機会が増えれば、中流や下流では洪水を防ぐために堤防のかさ上げや強化が必要になる事はあたり前と言えます。それは決して降雨量のせいではありません。治水を担当する役所が行って来た誤った治水工事によって自ら作り出した急激な増水が原因なのです。

「河川事務所」の失敗
 上述の「誤った治水方法」を読んで頂いて気が付かれたかもしれません。 これらの治水工事は全て関連している事柄なのです。
 どこかで治水工事を行えば、その他の場所に新たな治水工事を行わなければならない結果を生み出します。それがさらに新たな治水工事の必要性を生み出します。
 そんな連続で現在の治水工事は成り立っているのです。例えば「モグラ叩きゲーム」のように。しかも、ここでのそれは「モグラ」の数が増える一方なのです。

 安倍川の場合でも、一年中、常にどこかで河川工事が行われています。それらの工事は、完成すれば次には他の場所に新たな工事が待っています。それらの工事は次の工事を作り出す為の工事となっています。そして、砂礫浜には大量のテトラポットを投入し続けなければならない状況を作り出しました。
 全くの泥沼にはまり込んだ状態と言っていいと思います。

 河川が上流から下流へと連続して存在しているからかもしれません。しかし、それ以上のものを感じざるを得ないのです。もしかして、これらの連続は意図的に行われているのではないだろうか。そんな風にさえ思えてしまうのです。
 全国各地の砂礫浜が消失して行くのも、これらの誤った治水工事が行われ続けた結果なのです。そうしてそれらの砂礫浜にも、大量のテトラポットが投入される結果を生み出しました。

 治水工事に関わる公務員は全国に何千人といることでしょう。それらの工事も昨日今日始められたものではありません。海岸に大量のテトラポットが投入された時期以後を考えても治水工事に関わった公務員は何万人といたことでしょう。
 それらの公務員は、それらの所謂「治水工事」が間違えた方法である事に気が付かなかったのでしょうか。それに気が付いた人は1人もいなかったのでしょうか。 

 治水に関わる公務員はそれほどまでに怠慢で愚かなのでしょうか。そんなことは無いはずなのです。国の統治の基本である「治水」に関わる公務員に採用された人々が愚か者ばかりだったとは到底思えません。
 「治水」に関わる公務員に誰でもなれる訳ではないことは自明のことです。学業を優秀な成績で修め、様々な専門的知識を持ち合わせている人が「治水」に関わる公務員になっているはずです。 

 それらの人々は、砂礫浜が失われていく状況をなぜ防げなかったのでしょう。砂礫浜が消失する原因をなぜ把握できなかったのでしょう。治水工事を実施すれば、それが新たな工事の必要性を生み出す事を不思議には思わなかったのでしょうか。
 私がこの一連の文章を記述しながら考えたのはそのことです。砂礫浜の生成やその消失についてはある程度解明出来たつもりです。でもこの問題についてはほとんど分かりません。 

 少しだけ分かっていることがあります。これは利権に関連している事柄なのだと思います。それらの所謂「治水工事」をひと所で行えば他の場所に新たな工事の必要性が生じます。この所謂「治水工事」が持っている仕組みが、治水に携わる公務員を間違えた方向に向かわせてしまったのだと思います。
 一度予算を獲得して工事を実施すれば、黙っていても翌年やさらにその翌年に新たな予算を獲得する必要が必要が生じます。工事を行えば行うほど予算が確保されて利権が増えるのです。

 「治水」と言う言葉は「葵の御紋の印籠」より余程効き目があります。それは、国の統治の基本であると考えられています。国民は騙され続けて来ました。「治水」は専門家に任せておけば何の問題も生じないと、国民は考えて来ました。
 それをいいことに、それらの公務員はそれらの所謂「治水工事」を拡大し続けてきたのです。さらには幾つもの外郭団体を作りあげ、自らの集団とその個人の利益のみを考えて来たのです。

 これらの間違えた所謂「治水工事」を支えてきたのは、残念な事に国会議員です。
 国会において「治水工事」の予算については何度も何度も議論されて来た事でしょう。しかし、それらの工事の実態について論議された事がどれほどあったのでしょう。河川で行われた工事が治水のために役立っているのか否か、実際に確認した事がどれほどあったのでしょうか。 

 工事を実施すればするほど、流域住民の生活から河川が離れて行くことを何とも思わなかったのでしょうか。工事を実施しても実施しても、次から次にと新たな工事の必要性が生じていることを誰も不思議には思わなかったのでしょうか。
 昔からあった砂礫浜が近年になって急速に消失しつつあることを誰も不思議に思わなかったなかったのでしょうか。砂礫浜の消失を防ぐとして莫大な金額が投入されているのに、その効果はありませんでした。 砂礫浜の消失を防ぐ為に、ただただその費用を増大させていることに、何の疑いも持たなかったのでしょうか。
 海からの浸食を防いでいる砂礫浜が無くなり続けていることに、何の脅威も感じなかったのでしょうか。日本の国土が荒廃し続けている事を危機とは思わなかったのでしょうか。

 国会議員にとっても「治水」は利権の対象でしかなかったのでしょう。 膨大な額の税金が所謂「治水工事」に投入され続けて来ました。
 それらの金額の多くは怠惰で無能な、或いは悪意に満ちた公務員と国会議員等の利権のために費やされて来たのです。

 こうして、日本の河川の美しい景観の多くが失われました。生物の生息環境も悪化しました。美しい砂礫浜もその多くがテトラポットで埋め尽くされました。
 これらの間違った所謂「治水工事」のために膨大な税金が費やされて来ました。そしてこれからも費やされ続けられるのでしょうか。

 国会議員はその仕事をさぼっています。国の統治の基本であると、ほとんどの国会議員が説明するのに違いない「治水」においてさえこのようなデタラメが放置されているのです。放置すればその損失はさらに続きます。
 官僚と国会の怠慢と無能と悪意による失敗が生み出したのは、「年金」と「医療」と「原子力」の問題だけではありませんでした。「治水」の問題においても、とんでもない税金の無駄使いが行われてきたのです。

 近年、国会議員は、政権交代に関する政治活動にばかり力を注ぎ、本来の仕事はほとんど放棄している印象があります。もっともっと現状を分析して考え、議論を重ねて、行政を監督し、新たな法律を作らなければならないはずです。 

 政権が交代すれば世の中が変わると言う国会議員もいますが、そんなことはありません。幾度政権が交代しても、国会議員がその仕事をさぼっていたなら世の中は少しも変わりません。
 国の行政を監督し国の法律を作るのは、国会議員にだけ出来る仕事です。ほかの何人にも、それは出来ないのです。それをさぼっていたから、失われた20年が出来てしまったのです。時代が変化しているのに、それに対応出来なかったのです。このままさぼり続ければそれは30年にも40年にもなるのです。

 変えなければならない行政や新たに作らなければならない法律は山ほど溜まっています。足の踏み場も無いほど至る所にあるのです。
 それは、日々のニュースや身の回りに繰り広げられている様々な不合理から、国民の多くが感じていることです。

 とは言え、これら間違った「治水」とその結果としての砂礫浜の消失の責任の大半は「河川事務所」とその職員にあります。
 仮に、この文章で私が記述した内容が全て誤ったものであったとしても、その責任は逃れようがありません。

 数百年に亘って存在し続けた「砂礫浜」が、たったの30〜40年にして失われ、或いは失われつつあるのです。治水と海岸の保全についてその全てを管轄している「河川事務所」やそれに関連する行政にその責任があるのは明らかです。
 「河川事務所」やその職員、及びそれらを監督する「国土交通省」はこれらの責任をどのように取るのでしょうか、真摯な態度での返答を公開することを強く望みます。

「羽衣ノ松」「三保の松原」の未来
 前浜の砂礫浜について考えるようになってから、「三保の松原」へも幾度か足を運びました。「羽衣ノ松」を最近訪れた時のことでした。

 駐車場に車を止めて、支度をして出かけようとした時です。同じく到着したばかりの家族連れがいました。若い夫婦と幼稚園くらいの女の子です。
 湘南ナンバーの車から降りてきた女の子はぐずっていました。日曜日休みでない父親が、幼稚園を休ませて、家族そろって遊びに来たのでしょう。女の子は長いドライブに疲れてしまったのでしょうか、両親を手こずらせていました。

 その脇を通りながら、ふと思ったのです。「羽衣ノ松」や「三保の松原」はそれほどまでして訪れたくなるような観光地なのだろうか。小さな子供を連れて旅行するなら他の場所の方が良かったのではないだろうか。その家族がなんとなく気の毒に思えたのです。

 「羽衣ノ松」の前に広がる砂礫浜を行ったり来たり、観察をして、写真を撮り、さて戻ろうかと思っていた時でした。駐車場で会った家族連れが波打ち際で遊んでいました。
 女の子は、寄せたり引いたりする波を喜んで、はしゃぎ騒いでいました。父親も母親も楽しげにその相手をして微笑んでいました。
 渚と家族から目を移し、もと来た「羽衣ノ松」に向かおうとした時、私の正面に白い雪をかぶった富士山があり、その前に松林が続いていました。

 広い浜辺にいたのは、その家族と私だけではありませんでした。そこには多くの観光客がいました。男女の二人連れや、家族連れ、数人の若者たち、外国語を話しているグループなど。みんな「羽衣ノ松」から砂礫浜を下って水辺にまで来ていたのです。
 寄せては返す波を遊び、声を上げ、石を投げ、走り、歩き、腰をおろし、遠くを眺め、指をさし、話をし、皆それぞれに楽しんでいました。
 私は思い違いをしていました。

 そこには「羽衣ノ松」と「三保の松原」と「砂礫浜」のほかには何もありません。子供を喜ばせる遊戯施設はありません。着ぐるみもいません。音楽もありません。ありふれた自然がただあるだけです。
 でも、それは「羽衣ノ松」と「三保の松原」と「砂礫浜」でしか体験出来ないかけがえのない自然でした。

 波が寄せては返す渚に立つと、東の向こうに伊豆の山々、右手に遠く見える陸地との間の海原が駿河湾。少し波立った水平線のその先にあるのが太平洋。左手の砂礫浜の先では大きな貨物船が通り過ぎようとしています。その彼方が沼津です。
 その彼方の左側には愛鷹山を従えた富士山が隠れもなくそびえています。足元から続く砂礫浜の後には松林が続いていました。

 この景色はここでしか見る事が出来ないものでした。潮の香りも、波の音も、踏みしめる砂の感触も、流れる風も空気もここでしか体験できないものでした。

 しかし残念な事に、「羽衣ノ松」の前に広がる砂礫浜も消滅に向かっているのです。
 「羽衣ノ松」の浜辺の西側にも東側にも既にテトラポットが投入されています。大きな台風が数回来れば、「羽衣ノ松」の前にもテトラポットを投入するしかないでしょう。松林の根元の砂を大きな波が持ち去るのを防ぐのには他に方法は無いと思います。
 「羽衣ノ松」の前に広がる砂礫浜も、あと数年しか存在できないのでしょう。

静岡の前浜における砂礫浜の未来
 現在の状況を放置すれば砂礫浜は失われていくばかりです。
 大浜海岸に堆積した砂礫がそこから先の大谷や久能の海岸に移動することは容易ではありません。もちろんそれより先の三保半島の砂礫浜は失われて行くだけです。
 今のままでは、静岡の前浜の砂礫浜に未来は無いのです。全く残念な事です。

 静岡の前浜の砂礫浜を復活させるのには、安倍川の治水方法を変更するしかありません。急激な増水と急激な減水を無くし、昔のように穏やかな増水と穏やかな減水の安倍川に戻さなければなりません。

 その上流に大量の土砂を溜めた砂防堰堤をスリット型の堰堤に作り替える必要があります。コンクリート護岸の岸辺から石や岩が流れるのも防がなければなりません。コンクリート堤防も同じです。堤防の内側に建設された護岸も取り除かなければなりません。
 でも、これらの工事は時間を掛けて少しずつ実施しなければならないのです。急いで行えば、河川敷への土砂の堆積をかえって増やしてしまいます。それは洪水が発生し易くなることを意味します。

 ですから、仮に安倍川の治水方法を変更したとしても、砂礫浜にその効果が及んで来るのには、おそらく10年位は必要なのではないでしょうか。砂礫浜が確かに戻って来たことが誰の目にも明らかになるのには、さらに10年以上も掛るのではないかと思います。
 40〜50年掛けて安倍川は変えられて来たのです。短期間で元に戻るはずもありません。

 もちろん、安倍川の治水方法を変更する前や、変更してもしばらくは砂礫浜は失われていくばかりです。なるべく早く治水方法を変更して河川を改良しなければならないのです。
 全く残念な事ですが、静岡の前浜の砂礫浜を早急に回復させることは絶望的と言えます。

 ところで、ここに一つの提案があります。それは、砂礫浜を回復するのに長い年月が必要であると分かった時から、ずっと考えて来た末にようやく考えついた方法です。

 ある構造物を設置すれば、比較的容易に砂礫浜を回復させる事が出来る可能性があると考えています。安倍川の治水が現状より悪化しないなら、そしてうまく行ったら、4〜5年で三保半島までその効果が及ぶのではないかと考えています。 

 その構造物は今まで誰も建造した事はありません。新しい考え方による新しい方法です。その費用は、多分、テトラポットをひと並べする費用とそれほど違わないのではないかと考えています。とは言うものの、今は、私の頭の中にあるに過ぎません。

 是非この案を検討して、一日も早く砂礫浜の回復を計って頂きたいと願っています。

参考資料
「砂浜海岸の生態と保全」(独立行政法人水産大学校 生物生産学科 沿岸生態系保全研究室 教授 須田有輔)

国土交通省関東地方整備局 鹿島港湾・空港整備事務所「増える砂浜・減る砂浜」

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